1998/9/1更新

甦った曳山からくり−大津祭源氏山の場合−

大津市歴史博物館・企画展図録「町人文化の華−大津祭」より引用
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からくり人形の調査には、ある種の想像力が必要である。というのは、実物を寸分違わず調査することは、もちろん重要なことであるが、調査する対象が必ずかつてのからくりの動作や演技を伝承しているとは限らないからである。からくりの調査にとって重要なのは、からくり本体の動作や演技を可能にする構造と、そのからくりを操作する方法である。現在の伝承では不明になっている動きや、今は演じられなくなっている動きを探っていかなければならない。それはいわば、可能態としての調査とでもいうべきものであろう。その可能態としての演技や動作が見えてこないかぎり、からくりの調査は、実は完結しないのである。しかし、からくりの調査は、必ずしもそうしたかたちでは進められていないのが実情である。むしろ、現状報告型の調査がやはり主流を占めている。だが、それには自ずと限界がある。

では、我々はどのようにからくり人形の調査及び分析を試みるのか。まず、そのからくりが演じられた文献、記録を調査するのが基本である。しかし、ほとんどの場合、その期待は薄い。ところが、伝承されているからくりそのものの記録が少なくとも、そのからくりと同じ演目や、あるいは構造をもつからくりの資料は、なんとか集めることができる。それはより多くの場合、人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台演出を知るための手掛かりとなる絵尽し等の絵画資料が参考になる。そうした資料をもとに、現在伝承されているからくり人形の構造と機巧を詳細に調査することを通して、かつての人形の動きを推測していくのである。
ここでは、そうしたからくり人形の調査と分析の実際を、大津祭の源氏山の例に即してまとめてみたい。
宵宮飾り.jpg 源氏山は、紫式部が水想観を得て源氏物語の須磨明石の巻を執筆したという伝承を舞台化したものである。作者は林孫之進で享保三年の出来である。大人形の紫式部が琵琶湖の湖面を眺める風情で高殿に右手に筆、左手に巻紙を持って座っている。やがて、その下に小屋と立木がにわかに立ち現われる。まもなく、下手の岩屋から、汐汲みの翁と娘、舟を漕ぐ船頭、牛車の一行が次々と現われて、左から右へと移って上手側に消えていく。これが、源氏山のからくりの展開である。従来より、扇と称される回転盤にセットされている小人形の演技と、小屋と立木の出現という演出が伝承されてきていた。しかし、源氏山の構想からいえば、大人形の式部がまったく動かないというのは不自然なことである。
石山寺開帳.gif

そこで、絵画資料を参照すると、これと素材を共にする人形浄瑠璃や歌舞伎狂言の挿絵が見出される。すなわち、『源氏供養』と『石山寺開帳』がそれである。それらの本文を検討すると、明らかに式部の演技が伴われていたことがわかる。図に示したのが、その絵入本の挿絵の一つである。それらの人形の姿や式部の様子は、源氏山の人形や舞台に近い。ただし、残念ながら、これらの挿絵からは、舞台の実際が明らかにはしがたい。
そこでさらに、他の絵画資料を検討の材料としなければならない。次に掲げたのは、元禄十二年に京都宇治座で上演された『南大門秋彼岸』の挿絵である。
南大門.gif
この挿絵には、豊舟が南大門で一睡のうちに栄華の夢を見るという設定で、舞台の正面には眠っている豊舟、その胸から出現する宮殿、そして、豊舟の枕からは小人形が現われて、玉の輿を中心に行列が進んでいくところが描かれている。この小人形の動きは舞台下手の幕に注目すれば、明らかにそのなかに消えていくということがわかる。これらの小人形は豊舟の枕から出現して、やがて舞台下手の幕に消えていく。この演出が可能になるためには、やはり舞台正面の前面の多角形の基盤が回転して、右から左へと小人形を進めなければならない。これを挿絵は注記して「行列人形」と称している。この行列人形は、源氏山のからくりの小人形の演出と同じものと推定される。もちろん、小人形が歩むからくりとも考えられるが、やはり、回転盤を利用した演出とするほうが自然であろう。
ここで注目しておきたいのは、小人形と大人形の動きの相関である。豊舟が眠っているうちに豊舟自身の立身出世の有様が展開されていくのであるが、豊舟の胸から宮殿が出現して、その宮殿で栄華を極めるという設定であるので、やはり、小人形の動きとともに大人形の仕掛けも動作しなければならない。この点からいえば、それと類似したからくりである源氏山の場合も当然のことながら、式部人形が動作してしかるべきであろう。
操作用の紐.jpg
 
人形横栓.jpg
そこで、今回は、改めて式部人形を重点的に調査することにした。その結果、かつては、式部人形が、我々の予想を越えて、繊細微妙に動作していたことが明らかになった。すなわち、この人形の首は上下左右に動作し、筆を持つ右腕も上下左右に動き、さらに巻紙を持つ左手も内側に引き絞る動きができたことが確認された。
今少し詳しく報告しよう。まず、式部の首(かしら)であるが、これは文楽人形と同じ構造であり、式部の左右の耳の下に首を固定するための軸が差し込まれている。いや、首を固定するためというよりも、この軸を支点に首が動作するように工夫されたものである。人形の首には操作のための紐が通っており、その紐が今は使用されなくなっていたので、短く切られて操作の邪魔にならないように首と肩板の間にしまい込まれていた。そこから取り出した紐を引くと、先程の軸を支点に頭が上下した。また、人形の首は本体上部を左右に渡した横木に固定されているのだが、人形頚部の左右には横棒が付けられており、そこに操作用の紐を掛けると、頭が左右に回転する仕組みになっている。
この首の機構によって式部人形の演技の幅は大きく拡がることになる。すなわち、琵琶湖の湖面を眺め、遠くを見やりながら手もとの巻紙に目を落として源氏物語の須磨明石を執筆する式部の演技が見えてくる。
右手.jpg
人形本体.jpg
さらに筆を持つ右手は、肩板から軸受けに垂直に固定されている操作軸の回転で左右に動くとともに、肩板に通された紐が、右手の中頃の穴に結び付けられて、それを引くと上下するように工夫されている。これで、式部が筆を滑らかに操作して巻紙に書き付ける動きを実現できる。また、左手も詳細に検討すると、右手と同様の軸受けが切除されたあとが見出され、かつては左手も巻紙を引き寄せる動きができたようである。こうした動きは人形の細部を、からくりの動きを想定しながら調査することによって見えてくる。
そこで改めて、人形の操作用の紐を下で操作するために通す穴が設けられている式部人形の基盤部分を調査すると、そこには、それぞれの操作用の紐の役割を記した墨書が発見された。それによれば、頭、右手、左手が動いていたことは明らかである。もちろん、これがからくりの当初のものであるかどうかは不明である。かりに当初のものでないとしても、それの操作がわからなくなった段階で、やはり個々の紐の役割をメモとして残したものであるので、この墨書が式部人形のかつての動きを実証していることに変わりはない。
この式部人形は、実際には下遣いで操作される。現在の人形の固定位置では紐が真っ直ぐに下に下りず固定台に擦れて操作がしにくい。式部人形の固定台も調査し直してみると、かつての固定位置よりも後ろに引き下げられていることが確認される。それはおそらく、式部人形の左手が動かなくなった時点で、左手が欄干に当たって破損しないように配慮して後退させたのであろう。その位置に戻せば、式部人形の操作用の紐はほぼ垂直に下りることになり、操作はより滑らかになる。

そして、この大人形と小人形の回転盤の位置関係は絶妙なバランスになっており、回転盤のすぐ後ろに式部人形の操作用の紐がセットされている。先に示した、『南大門秋彼岸』の「邯鄲の枕」のからくりの大人形と回転盤の関係も、おそらくこのようなものであったのではなかろうか。

この源氏山の調査を手掛けられた山崎構成氏の調査においても、左手の動作の可能性は伺える。しかし、それもこうした式部の人形の動作をどこまで推定されたものであるのかは、はなはだ疑問である。むしろ、現状を調査したその結果を示されたものと考えられる。山崎氏は同書の中で源氏山のからくりを回り舞台とのつながりにおいて評しておられるが、これは当たらない。むしろ、先ほど示した絵画資料類からいえば、人形浄瑠璃の舞台において展開されていた行列人形のからくりそのものを、あるいはそれをヒントにして源氏山のからくりを考案したものと推定される。元来、からくり師は山崎氏が想定されたような独創性を目指したものではなく、すでに考案されているからくりを新たな意匠で作り替えたり、別の要素を組み合わせることによって目新しい演出を工夫したりするところに、その腕前があったのである。その意味では、林孫之進は見事なからくり師であったと言えよう。

大津には、からくり人形が十三種、伝承されており、古風なからくりが多い。現在、それらの再調査を進めている。源氏山の例だけにとどまらず、改めて調査し直すことによって、すでに失われていた、人形の本来の動きを取り戻させることができるかもしれない。

(図版は「石山寺開帳」が大阪府立中ノ島図書館<「古浄瑠璃正本集」加賀掾編より転載>、「南大門秋彼岸」が、早稲田大学演劇博物館ニ−7−178<「正本近松全集」第4巻より転載>による)。
写真はすべて山田和人が撮影しています。無断で使用することを禁止します。

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